ダンス・ダンス・ダンス 解説(後編)
ねこ助の息抜きブログ

ダンス・ダンス・ダンス 解説(後編)


引き続き村上春樹氏の「ダンス・ダンス・ダンス」について考察します。この作品は社会批判に終始している訳では有りません。むしろこの様な社会において人間個人はどの様に生きるのか、つまり「僕」を通じて人間個人のあり方を描いているのだと思います。

前編記事はこちらです



-Contents-
・なぜ4部作なのか(前編)
・ダンス・ダンス・ダンスにおける社会批判(前編)
・ダンス・ダンス・ダンスのテーマは何か
・「僕」は幸せになれるのか
・五反田君の存在意義



ダンス・ダンス・ダンスのテーマは何か


私はこの作品のテーマを「自己の再生」ではないかと考えています。多くの喪失を経験してきた「僕」に対し、羊男はこの様に告げています。「(前略)あんたは幸せにはなれないかもしれないよ。それだけはおいらにも保証できないんだ。あちらの世界にではもう何処にもあんたの行くべき場所はないかもしれない。確かなことは言えない。でもあんたはさっきあんたが自分で言ったように、もう随分しっかりと固まってしまっているように見える。一度固まったものはもとには戻らないんだよ。あんたももうそれほど若くはない。(中略)あんたはこれまでにいろんな物を失ってきた。(中略)そうすることによって、あんた自身も少しずつ磨り減ってきたんだ。」

ここでいう「固まる」という表現は、惹かれあうも結局その相手との行き着く先が別れでしかなかった、という事実の繰返しに「僕」自身が疲れ果て、諦観を示す様になった事と考えられます。冒頭に山奥で埋葬された「僕」の飼い猫の姿は、「僕」自身の孤独な死を連想させる様に記述されています。本書では多くの喪失を経験した「僕」が復帰していく様を描いています。
ダンス・ダンス・ダンス 解説2

「僕」は幸せになれるのか


本シリーズでは「僕」も含め共同経営者、元妻、キキや鼠にジェイ等,人物に名前が与えられません。あるいは便宜上ニックネームのみ明らかにされる登場人物が多いです。本名が明かされる人物の方が少数で、これはユキ、五反田君、ユミヨシさん、ディック・ノースに牧村拓のみです。(牧村拓の名前は村上春樹のアナグラムです。他の人物に比べニックネーム的な意味合いが強いと思います。)

本名が使用されるのは本作「ダンス・ダンス・ダンス」の登場人物だけです。登場人物の名前をぼかすことで、マスプロダクトで置換可能な存在にする意図があったのではと思います。著者は前作までは「僕」を、例えば読み手自身等、誰にでも置き換え可能な存在として朧げに描く心づもりがあったのではないでしょうか。しかし、本作「ダンス・ダンス・ダンス」のテーマが人との深い関係性の創出であるならば、登場人物に対して名前を省く訳にはいかなくなります。

「僕」がいるかホテルの眼鏡をかけた受付嬢に惹かれ、そして彼女を強く求める様になる過程で彼女にはユミヨシさんという名前が与えられました。この時点で「僕」にとってユミヨシさんが置き換え不可能な存在となり、僕の「自己の再生」が果たされたものと解釈できます。しかし、「僕」との深い関係性を持った人物の遺体が並べられた部屋、羊男の部屋でのユミヨシさんの消失の場面では、彼らの喪失の可能性が示唆されています。「僕」が幸せな生涯を送ることになるかは作中では未だ決まっていません。



五反田君の存在意義


経済的に成功することが幸せになる事を直接は意味しない、それが五反田君という登場人物に表れているように感じました。五反田君は俳優であり、「僕」に比べてはるかに社会的に成功している人物です。

しかし、彼は職業柄使い分ける虚構の姿と本来の自分自身の区別がつかなくなり、制御不可能な程の鬱屈を抱えていました。この作品では幸せは、社会的な地位ではなく、人との関係性こそがその鍵となると暗に表現されています。

本作品が発表されたのは1988年です。バブルの最盛期において、人々は経済発展とお金を使う事に喜びを見出しました。経済的に豊かになる事が幸せとなる事を意味しない。この事に大衆が気付くのはバブル崩壊後、失われた10年と言われる長い低迷期を経験した後です。著者はバブル期において既に静かな警句を発していたのだと思います。